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組合員さんの声

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2026年の一覧

世界のトップの方へ

平和のメッセージ
2026年08月

爆弾ではなく、花火を作ってほしい。
世界のトップの方々へ……。
手もはさみ✂も、使いようです。
それと一緒!!

防空壕に駆け込んだ思い出

平和のメッセージ
2026年08月

 子どもの頃、戦争がありました。敵機(B29)が飛んでくると近所のおじさん(なぜ出征しなかったのかいまだに謎です)が手持ちのメガホンで、「警戒警報!」「警戒警報!」と叫んでまわるので、私共は何をさておき、まっしぐらに防空壕に駆け込みます。B29は赤江の飛行場を狙って爆撃していきます。あまりにも頻繁に飛んでくるようになったので私共一家は近郊の家に疎開しました。終戦を迎えた後は大変な食糧難で“配給”というのがありましたが、食べ盛りの子どもたちを満足させるほどにはありませんでした。

子や孫にこの幸福が続きますように

平和のメッセージ
2026年08月

戦争は絶対いや!私は80歳、戦争は知らないけど、貧乏な生活はしっかり味わいました。今は幸福です。この幸福がずっとずっと続いてほしい。子や孫に今の健康で幸福な生活を続けさせてくださいますよう願うこの頃です。

戦争なんてやめて欲しい

平和のメッセージ
2026年08月

 戦争なんてやめて欲しい。他国のことを勝手に言って攻撃しないで。欲が深すぎて他国を攻撃している。みんな同じ人間です。自分だけ偉いのじゃない。日本も強い国に遠慮しないで。戦争にならないで。

千人針を縫った祖母

平和のメッセージ
2026年08月

 毎年この企画に賛同し、参加させていただいています。
 大正10年生まれ(平成28年没)の祖父、大正15年生まれ(平成23年没)の祖母を持ち、例年祖父の若き下士官時代のお話を書かせていただいていましたが、今年は祖母の銃後のくらしのことを・・・。
 終戦の年、19歳の祖母は寅年生まれであることから、出征される兵隊さんの「千人針」をたくさんの方に頼まれていたとよく話していました。今、この現代に置き換えて考えれば、誰が19歳で「今日は何枚千人針(の腹帯)を縫ったぞ!」など言うでしょうか?それでも祖母にとっては忘れられない19歳、終戦の思いでなんでしょうかね・・・。田畑義夫さんが大好きだった祖母、名曲「19の春」さながらの出来事です。

焼きついた跡形 忘れられない

平和のメッセージ
2026年08月

 修学旅行で行った長崎の原爆資料館の中の雨戸に焼きついた人の跡形は今でも忘れることはありません。それが戦争の全てだと感じます。他人の傷みを知る!他人と自分は違うんだ!だからいいんだ!そんな小さなことから新たに始めるといいかも?と年を重ねて思います。今、他人のことばかりを見てしまう、そんな方が増えすぎてさみしく思いますね。

平和を守ることが我々の責務

平和のメッセージ
2026年08月

 9人兄姉の9番目の母は白寿に!5歳上の兄は、石ころだけ帰ったと・・・。今、墓参りにも行けなくなった母は古里を偲び語ります。
「君死にたまふことなかれ」は現在にも通じると思います。「平和」を守ることが子である我々の責務かと思います。

戦いは私たちの時代だけで終わってほしい

平和のメッセージ
2026年08月

 私は戦死した父の顔を知りません。母のお腹の中、5ヵ月の時に出征し帰らぬ人になりました。今年で戦後81年、私も84歳になります。野戦病院で食べ物も薬もなく苦しんで逝ったであろう父のことを想いうかべて、いくど涙を流したことか・・・。残された祖父母、母の悲しみ、苦しみはいかばかりであったろうか・・・。私はまだ3歳、その様子を知る由もなく、成長すると共に戦争の現状を知り、父のいない事を実感してきました。中学3年の時、県から靖国神社へ参拝させていただきました。未だに世界のあちこちで戦いが起こっています。人と人との殺し合い、何故、どうしてと腹立たしさを感じます。戦いは私たちの時代だけで終わってほしいと願っています。〝戦争は人災です〟

胸が張り裂けそうに

平和のメッセージ
2026年08月

 長崎出身の私は「山里小学校」に通っていたのですが、校歌と同じくらい大切にされてきた「あの子」という歌があります。この歌は自らも白血病と闘いながら平和を訴え続けた医師である永井隆博士が作られた歌で、実際に原爆で我が子を亡くされた悲しみが歌詞となっています。そういった歌を小学生の頃はただ歌っているだけでしたが、子どもを産み、親となって改めて聴いていると、本当に胸が張り裂けそうになります。

防空壕へ逃げ込んだ記憶

平和のメッセージ
2026年08月

 私が3歳の頃だと思います。B29のダダーゴーゴーと音がすると裸電球に布かけて家の裏から山の下に掘ってある防空壕の中に、疎開してきている少し年上のお兄ちゃんや他の人と走って逃げ込みました。この状態が何年続いたのか記憶になく覚えていません。戦争が続き、近くには家族で疎開して来た人たちの掘っ立て小屋(住まい)がたくさんありました。そこが今住宅地になっています。
 その後、父の弟が軍服姿で帰ってきて、父の顔を知らない私は、その人に「父ちゃん」と言ったそうです。後に姉から聞いて知りました。私は小学生になっていたのでしょうか。姉と私は年の差5歳です。一緒に学校へ行ったことは覚えています。仲が良かった友だちもいつの間にか引っ越して行き、その子の家も、現在は駐車場になっています。

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