父が書いた自分史が実家に残されていたので書き写していました。1926年(大正15年)6月生まれ。亡くなって今年で12年。存命ならば今年100歳。
生協が平和の取り組みをされているので、亡父が書いた戦争体験を少しでも参考になればと送ります。
日向市の組合員さんからお父様が遺された「戦争体験とその後」の文書を送っていただきました。
戦争体験とその後 岩田三郎(享年88歳)
学卒後、日本発送電(株)に入社。昭和20年3月、山口県徳山市櫛ケ浜の暁部隊に船舶通信兵として入隊した。
無線通信兵に編入され、乾パン2個を貰い、軍用列車で広島に移動中、大竹石油基地の手前のトンネルを出た時、B29に爆撃され、機関車と前2両が爆破。私は後方の車両に乗っていたので無事であった。しかし、そのため、呉までは行軍しなければならなかった。途中、大竹燃料タンクの火災に出合い、火の海の中に、裸馬が焼け爛れて走るのを目撃した。
広島県三原市の通信学校に入校し、教育を受けた。比治山公園の郊外教育場はこの後、原爆投下で灰儘に帰した。私も出発が1週間遅れていたら原爆の犠牲になっていた。
教育期間中、夜間は防空後掘りで作業用具はツルハシとモッコのみの手作業で働くので、若い兵士たちは腹が減って仕方がなかった。
検閲終了後、交信のできる者2名と他3名が班を組み、宇品から軍用列車で南下した。車窓は目隠しされ行先は不明であった。
軍隊はデマの多い所で朝鮮方面に行くとか、人間魚雷に乗るのではないかとか噂が絶えなかった。
さらに関門トンネルを通過し南下中、南延岡に停車した。
小丸川鉄橋が爆破されたため下車し、2~3日そこに宿泊。小丸川近々まで列車で行き、日南の飫肥中学校まで行軍し、鹿児島県財部町へ無線機受領に出発した。
日南線は空襲が激しく列車は頻繁に停車し避難ばかりでなかなか進まなかった。
しばらくして到着したが、司令部は空襲を避けて、山の洞窟内にあり、そこで無線機を受領。2人で手回しする500ワットの発電機であった。
財部に宿泊中は敵のグラマンに機銃掃射されまさに九死に一生の経験をした。
帰隊後、細田小学校で電信局を開局し、1日3回位の割合で司令部と交信する中20年8月15日終戦となった。江口曹長の訓示を拝聴する兵士一同に嗚咽が広がった。
北郷小学校で武装解除を受け、昭和20年9月に復員し、日発(日本発送電)に復職。
昭和26年、上椎葉発電所建設所に転勤。同年、社名を九州電力と改称。日本最初のアーチ式ダムを建設した。
