修学旅行で行った長崎の原爆資料館の中の雨戸に焼きついた人の跡形は今でも忘れることはありません。それが戦争の全てだと感じます。他人の傷みを知る!他人と自分は違うんだ!だからいいんだ!そんな小さなことから新たに始めるといいかも?と年を重ねて思います。今、他人のことばかりを見てしまう、そんな方が増えすぎてさみしく思いますね。
組合員さんの声
(平和のメッセージ)
焼きついた跡形 忘れられない
平和を守ることが我々の責務
9人兄姉の9番目の母は白寿に!5歳上の兄は、石ころだけ帰ったと・・・。今、墓参りにも行けなくなった母は古里を偲び語ります。
「君死にたまふことなかれ」は現在にも通じると思います。「平和」を守ることが子である我々の責務かと思います。
戦いは私たちの時代だけで終わってほしい
私は戦死した父の顔を知りません。母のお腹の中、5ヵ月の時に出征し帰らぬ人になりました。今年で戦後81年、私も84歳になります。野戦病院で食べ物も薬もなく苦しんで逝ったであろう父のことを想いうかべて、いくど涙を流したことか・・・。残された祖父母、母の悲しみ、苦しみはいかばかりであったろうか・・・。私はまだ3歳、その様子を知る由もなく、成長すると共に戦争の現状を知り、父のいない事を実感してきました。中学3年の時、県から靖国神社へ参拝させていただきました。未だに世界のあちこちで戦いが起こっています。人と人との殺し合い、何故、どうしてと腹立たしさを感じます。戦いは私たちの時代だけで終わってほしいと願っています。〝戦争は人災です〟
胸が張り裂けそうに
長崎出身の私は「山里小学校」に通っていたのですが、校歌と同じくらい大切にされてきた「あの子」という歌があります。この歌は自らも白血病と闘いながら平和を訴え続けた医師である永井隆博士が作られた歌で、実際に原爆で我が子を亡くされた悲しみが歌詞となっています。そういった歌を小学生の頃はただ歌っているだけでしたが、子どもを産み、親となって改めて聴いていると、本当に胸が張り裂けそうになります。
防空壕へ逃げ込んだ記憶
私が3歳の頃だと思います。B29のダダーゴーゴーと音がすると裸電球に布かけて家の裏から山の下に掘ってある防空壕の中に、疎開してきている少し年上のお兄ちゃんや他の人と走って逃げ込みました。この状態が何年続いたのか記憶になく覚えていません。戦争が続き、近くには家族で疎開して来た人たちの掘っ立て小屋(住まい)がたくさんありました。そこが今住宅地になっています。
その後、父の弟が軍服姿で帰ってきて、父の顔を知らない私は、その人に「父ちゃん」と言ったそうです。後に姉から聞いて知りました。私は小学生になっていたのでしょうか。姉と私は年の差5歳です。一緒に学校へ行ったことは覚えています。仲が良かった友だちもいつの間にか引っ越して行き、その子の家も、現在は駐車場になっています。
100年もたっていないのに・・・
祖父も南方(太平洋戦争)で亡くなりました。あれから100年もたっていないのにこのありさまです。
きょうだいがいたらと思う
私が生まれた時、父はすでに戦地へ・・・戦死。もし戦争がなかったら、きょうだいは何人いただろう。ずっと一人だった私は今になってもきょうだいがいたらと思う。
世界中で平和を望まない人はいないはずなのに、何故戦争をするのか、理解できない。戦争を始めるのも止めるのも「人」、人しかできないこと。一度っきりの人生に平和平穏を・・・と思う。
平和な時代でありますように
平和の取り組みの諸々の活動を知ることができました。子どもが小学生中学生の夏休みに沖縄や知覧へ行ったことを思い出しました。世界平和が何よりの願いですが、今の世界では納得できない戦争が続き、心が痛みます。生協さんの活動(取り組み)が続けられることを願っております。子どもたち孫たちが平和な時代でありますように念じます。
戦争したくなくなるよ
福岡に住む小学5年生の孫が「世界中の人に『ちいちゃんのかげおくり』を読んでほしい。戦争したくなくなるよ。絶対に」と。原爆ドームを見に行きたいといっています。
平和な世界が続きますように
生協で取り組む募金はたくさんの人々の善意が集まっていると感じます。それにしても、どこかの国々では膨大な額の軍事費をどんどん増やして海に捨てています。平和が脅かされていく日々を感じています。
戦争だけは絶対ダメ!平和な世界が続きますように。
